操体法概論

「操体法概論として」 岡村郁生

今回の秋季東京操体フォーラムは、動診から操法、生き方の自然の法則(息、食、動、想 )の“ 動 ”つまり、 からだの使い方・動かし方をご覧頂くわけです。

ふと思い返せば、私自身が三浦理事長の講習会に初めて参加した25年前。

からだを動かすということは重心が変化しているということ。

こんな考えてみれば、当たり前のことをじっくり考え直す機会に恵まれました。 

動物として自然なこと。

生命活動を地球の重力下で生かされているヒトとしては、不自然に動いていることに気付きました。 

気付いたら自然な動きにルール( 法則 )があり、学びながら実践して これは間違いなく自然なヒトの動き になることを皆様に伝えなければ、と。

操体の学問にはそんな責任感も生じてくるのです。 

生まれてきたのではなく、生まれてくることに意志があったと感じとる。 

生かされていることを感じとれることで、生きているのだ 、という驕りを取り除いていくのです。 

「操体」とは、学べば学ぶほどに感恩報謝できることではないでしょうか。

この世に生まれた時から救われている。

このありがたさこそ、操体の概論に必要なことなのだ、と。

私自身25年以上経過した今も、学びが愉しんでいられる理由としては、「からだ」が感じる重心軸まで知ってしまった後に戻る道はありませんから。

三浦理事長のもと学んでいる操体( 法 )は、仙台の医師であった 故 橋本敬三先生が、 日本人として誕生してから96歳で亡くなられる迄の間ずっと学び続け、 実践を続けて下さったからこそ、直弟子の三浦寛理事長が大切に引き継ぐことにより、進化された“ 操体 ”という名の真なる自然法則、全身体性力学なのです。

それを有難くお借りして応用貢献していれば、真の愛から響く正しい生き方の方向性となっていること。

学びながら、それも人として生かされていることに目覚めること 。

感謝しながらネ、ありがたく間に合うのだよと、からだは教えてくれるのです。

橋本敬三師匠の放言。

『 気持ちの良さを ききわければ いいんだ! それで治るのだから 』

『 あまり欲張らなくてもいい 間に合うようにすればいいんだ 』

『 知らないと間違う 天然の法則があるからね 息・食・動・想・環境 それぞれ勉強しなさい 』と、知識ではなく知恵をお土産に残してくれたのですから。 

そんな難しいことは子供にはわからない? いいえ、子供は知っています。 

大人になるに従って一般常識や世間に合わせてしまうことや知識を偏って頭にしまっていくこと。 

味わってもないのに盲信してしまうことはないのですから、下手な大人よりはずっと知っています。

本来、いのちが誕生するという奇跡はもともと完璧な( perfect )ことなのです。 それを“ 救い ”といいます。 

生まれながらに救われているのです。

それはウソか本当か学んでいけば、そこには実感として染みわたるエキスのようなものがあります。

生命現象は、原始感覚ありきです。

それを真の愛に繋がる“ 知恵 ”というのではないでしょうか。 語り継がれるべきものであり、より濃いものとして後世に残していく大切な財産であります。

操体は、日常の生活はもちろんスポーツ・芸事・武道 なんでも応用できます。

但し、その基本を学び、ルールに合わせて愉しめるように学び続ければ、目的は重心の適性かなっていくようです。 

今回のご参加、ありがとうございます。                                                    

実行委員 岡村郁生

 

 「操体法の指導について」畠山裕美

 今回の東京操体フォーラムは「操体を指導している」方向けにお話しようとおもっています。

操体を「自分ででき・ひとりでできる」と思っている方は、たくさんいらっしゃると思います。

ただ「ひとりでできる」ということは、必ずしも「独習・独学できる(本とか動画をみればできる」というわけではありません。

また、操体は「自分で動いて治せる」という認識をしている人がいますが、よく考えてみてください。
もし「自分で動いて治せる」のだったら、操体は今頃全世界に広がっていると思いませんか?

残念ながらそんなことはありませんが、どんな凄いものでも広がりにくいのには理由があります。

実は、世の中に存在するメソッド的なものは、二段階になっています。

① 基本となる土台の考え方(や基礎動作)
② テクニック

の二段階です。

大抵は、②のみが流布するのです。

全く効果がないとは言いませんが、多くの人はテクニックに奏功や即時性を求めます。

なので、凄いものでも広がりにくいのではないかと思います。

例えはおかしいですが「女性にモテるテクニック」というのがあり、そのテクニックを駆使しても、あきらかに不潔だったり、臭ったりする場合は、テクニックが役に立たない場合があります(汗)。

つまり、モテたいのであれば、基本となる土台の考え方である「清潔で臭わない」ということは非常に大事であり、モテるテクニックは、土台があってこそです。

これを「このテクニック、効果ないじゃないか」と、テクニックの考案者を恨み、不潔で臭うスタイルは変えず、別の新たなモテテクに手を出すのです。

まあ、世の中には不潔で臭う人に大変に惹かれてしまう、と言う人もいないわけではないと思いますが、大抵は違うはずです(汗)。

この場合、テクニックが効かなかったのではなく、基本の土台である「清潔感があり、臭ったりしない」ということを押さえておかなかったのです。

橋本敬三先生は、患者さんには「操体は簡単だヨ。家でもちょこちょこやってごらんなさい」とおっしゃいました。

一方、弟子には「よくもこんな大変なこと(操体)に足をつっこんだな。でも、操体は面白いぞ。一生たのしめるからな」とおっしゃいました。

これ、どうして?って思いませんか?

私も長いこと考えていたのですが、最近やっと気持ちを言語化することができました。

そもそも橋本敬三先生は、患者さんを治療する医師という立場で操体を創案しました。

つまり「考え方の土台となる基本、からだの使い方、動かし方を習得している」というのが前提です。

「一生たのしめるくらい大変だが面白い」という部分です。

患者さんは、指導者が「一生たのしめるくらい大変だが面白い部分」をマスターしていて、患者さんがそこを知らなくても、全くの初心者でも、指導者が文字通り指導してくれるので「簡単に」操体を体感できるのです。

 

ひとりでできる、と独学できる、は違う。

プロ(考え方の土台となる基本、からだの使い方、動かし方を習得、つまり橋本先生が「一生たのしめるくらい大変だが面白い」、とおっしゃった部分)の助けがあれば、患者は「比較的簡単」に「操体」を体感できる。

世の中には、橋本敬三先生が患者さんに言った「簡単だよ」と言う言葉を鵜吞みにして「操体は簡単にできる」なので「操体指導者になるのは簡単」だと思っている人もいます。そんなことありません。もしそうならば、操体のプロ(操体専業)は、もっとたくさんいるはずです。

一人でできる、自分でできる、ってことは「独習(動画を観たり本を読んだりして)してテクニックを覚えればいいんだ」と思っている人もいるかと思いますが、そうではないんです。

「考え方の土台となる基本、からだの使い方、動かし方」を、全くしらない個人が、動画や本を読んで操体を実践するのは、かなり難しい。

「一生たのしめるくらい大変」なことだから。

ちなみに「私は治療家じゃないし、自分のケアをしたいだけだから、テクニックだけしっていればいい」という方もいらっしゃるかもしれませんね。

ただ、独学で操体のセルフケアができるようになるには、

① 基本となる土台の考え方(や基礎動作)が必須なのです。

今回は、実際に「他者に操体を行う操体指導者がどのようなことをやっているのか」ということをはじめ、操体指導者の皆さんに役立つ情報をお届けしたいと思います。

操体は②のテクニックだけでは、21世紀を乗りこえることができないかもしれません。

最近の風潮ですが、②のテクニックの流布だけの時代が終わっているように思えます。みんなが「上っ面のテクニックだけいくらやっても効果は出ないのでは」と気づきはじめ、①基本となる土台の考え方 の重要性に気づいてきています。

そのあたりをお伝えできればと思います。

「操体概論」 三浦寛幸 

私は今年で操体を学び始めてから15年の月日が経過しました。

元々は橋本敬三先生が提唱していた操体の哲学に惹かれたのがこの世界に足を踏
み入れた動機です。

しかしこの学びは心の統制(想)だけでなく、自分と共に生きるからだの使い方やそれ
らを臨床応用したものまで生きることにおける全てのものに繋がる学びなのです。

それを踏まえ、からだと共に学習を重ねてきましたが、この月日の中で掴んだことは
人が健康に生きていくために必要なことはからだが知っているということでした。

それは橋本敬三先生が説かれていた「救い」であり、そのありがたさに気付き、日々
の中で意識していくことが技術やテクニックの習得以上に大切にしていかなければな
らないことなのです。

では、からだが知っていることとは何なのでしょうか?

それを紐解くヒントは私達が生命活動の中で当たり前に営んでいるものの中にありま
す。

呼吸をし、動き、食事をし、考え、そして与えられた環境の中でからだと共に生かされ
ている。

そのからだにも意思があり、人格があるので自分勝手に日々の生活を送ってしまって
いてはからだは悲鳴をあげてしまいます。

からだの意思に反しないように答え合わせをしていくことが出来るのが操体の学びに
はあるのです。

今回のフォーラムでは介助・補助の実技を通じて参加者の皆様にはからだがどういっ
たメッセージを私達に送ってくれているのかを体感して頂ければと考えております。
介助・補助、言葉掛け、そして作法。その一つ一つにもからだからのメッセージを受け
取るために必要な要素が沢山あるのです。

短い一言になりますが、今回のフォーラムは皆様がからだとよいお付き合いをしてい
けるきっかけが得られる時間にしていきたいと思っておりますのでよろしくお願い致し
ます。

「操体概論」 半蔵

操体の発展史を俯瞰してみると、創始者の「造り(構造)があって、それが動く(運動)んだから、どうして動かして診ねえんだ。」という言葉にみられる様に、運動から動き、そしてうごきへと進化して行った流れが見えます。

操者が主体となって動かす(抵抗運動)というところから、被験者に動いていただく(介助・導誘)、そしてからだに表現していただく、となります。

それは、単に運動系だけの運動から、からだ全体のうごきへと深化した歴史でもあります。

操者と被験者の関係は、主体と客体から、からだを介して主客一体となり、臨床は臨生となりました。

「操体概論」 寺本雅一

操体は「からだ」とともに、未知なる自然のことを学んできた学問です。実際にやってみるという実践を通し、またやってみたときのからだを通して受け取る感覚を頼りに、からだからのメッセージを一番の情報の種として現在まで試行錯誤の末、進化してきました。

からだを構造(つくり)の面からだけではなく、動きの面からもみつめている。そこで生まれた「動診(どうしん)」という診方・捉え方は操体をユニークたらしめているひとつの重要な側面と言えると思います。

からだの動き(うごき)と一口に言っても、実はとても豊かで複合的な営みによって成り立っています。

横紋筋系の運動的な動きから、皮膚を通して伝わってくる微かな動き、目にみえない呼吸の動きなど、様々な切り口からからだの動きというのは捉えることが可能です。そして、そのそれぞれのからだの動きには「感覚」が伴い、指導者の下で適切な介助と補助が与えられることによって、からだを介して「ききわける」ことができます。

このからだがみせてくれる動きの世界、そしてその動きに伴う感覚の世界の学びから動診の分析法も体系化されて今に至ります。

からだの動きを学び、からだの中心と重心のことを学び、それが臨床のなかに息づいている。
橋本敬三先生が築き上げ、問い続けた操体の学びはここまで来ています。

そして、この他に類のない臨床体系(操体法)は創始者から受け継がれた未だ底の見えない生命哲学(操体)に根付いています。この深遠なる哲学の土壌があったからこそ、操体法は面白いのです。実際にやってみる、ということは大きな体験です。経験し、味わってみることで生まれてくる言葉もあります。座学は愉しいし、非常に有意義なものですが、こうしたからだを介しての体験から、ご自身で感じたこと、突然意識にのぼってきた気付き、気が付くと口にしていた言葉というのも、とても大事なからだからのメッセージです。

こういった経験を日々の生活やこれからの活動の種として生かしていっていただきたい。
そこで、生まれたテーマは「もっと丸ごと操体法」。

今年の秋季は操体法の幅広い実技の世界観を実際に見て、体験して、実践してという機会を設けます。

アタマもからだも丸ごとで味わうことができる空間で、皆様のご来場をお待ちしています。

 

「操体の初期の概論をつうじて」友松誠

操体、操体法は、医師であった橋本敬三先生(1897~1993)によって、体系づけられました。

橋本先生は、大正時代に新潟医専や東北帝大医学部で生理学を学び、昭和の時代の初期に函館の病院で実際に臨床を行う事となった。

しかし、受け持ったのは外科であり、それまで学んできた分野とは違うものだから、困ってしまったという。

特に困ったのが、整形外科領域の患者さんを診る時だったという。

仕様がないので骨つぎを呼んできて施術してもらったりとか、そのうち骨つぎだけでなく、鍼もこい、灸もこい、指圧もこい、とみんな呼んでしまうようになったという。

そして、そうした様々な民間療法の人達から教えを受けた。

様々な教えを受ける中で、すべてに共通しているのは刺激を与えて身体のバランスをとっているのだという事に気づいた。

そのうち、身体のバランスをとるのに、痛くないように(刺激ではなく)身体を動かして良くする人と出会う。

それが正體術との出会いであり、「痛いことをしなくても治るんだな」といたく感銘を受けたという。

そして、そのやり方をお借りしながら、橋本先生は独自の生命観、哲学と重ね、研鑽を積んでいく事となる。

函館の病院で、はじめて実際に臨床を行うようになってから、約10年くらい経った昭和12年頃、橋本先生は求学備忘録として10年間の学びのまとめを書いている。

この求学備忘録を読むと、西洋医学は勿論、東洋医学にもつうじ、そして民間療法にも学び、それらを自らやってみて、操体法の基となる「動かして診る」という他にはない診断分析法にたどり着いた事が伺える。

しかし、「動かして診る」といっても、初期の頃ほど正體術のやり方が色濃く、骨格関節の歪みを正す事に主眼が置かれていた。

その為、本人の「自力自療」を唱えつつも、「動きに抵抗を与える」という言葉からも察せられる様に、この頃はまだ施術者の熟練度によるところが大きかった。

「2,3秒間動きをたわめた後、瞬間急速脱力させる」というのも、瞬間急速脱力させる事で脊柱配列の異常を正すという考え方もあった。

しかし、これも動きのたわまりを感じ取れずに言葉掛けをして、脱力に導いても効果は期待できなくなる。

また、瞬間急速脱力が出来ないという人も当然でてくるが、これも一つの動きが合目的に全身に及ばず、どこかがブレーキをかけていれば、無意識的にも出来ない筈。

簡単そうでも奥は深い。

また、「抵抗をかける」という意識で対峙し、力比べのような事をしながら、瞬間急速脱力に導いても、力んでいるのだから効果は局限的であり、上手く局所関節の整復がなされたとしても、却ってバランスを崩す場合もある。

何故なら、その関節が歪む事で、全体のバランスをとっている場合もあるからだ。

症状疾患から自分の決めつけで被験者のからだを診ている施術者にとっては、骨格関節の歪みを正す事を主眼に置く方が、都合がいいかもしれない。

しかし、被験者や被験者のからだにとっては、どうであろうか。

治したつもりでもバランスが悪ければ、不快症状は再発しやすく、バランスの悪さをそのまま放置しておけば、時間空間のかかわりから、新たな症状疾患を引き起こす事にもつながってしまう。

身体全体のバランスをとることが大切だが、生身の人間が生きているのだから、生命エネルギーの入出力のバランスも大切。

「息」「食」「動」「想」と「環境」のバランスの事であり、「息」「食」「動」「想」には、それぞれ自然法則があり、それに合わせるようにしていく事で、身体全体のバランスもとれてくる。

特に、「動」の自然法則は「動かして診る」という診断分析法を用いる操体法にとって、生命線と呼ぶべきものである。

しかし、この「動」の自然法則の究明は、橋本先生が「からだの動きが8つしかないことが判ったのも老いぼれてからなんだ」と仰っていたように、並大抵の事ではない。

橋本先生の時代は、「動かして診る」という診断分析法でも、正體術から学んだやり方に、解明できた「動」の自然法則を応用しながら、臨床効果の質を高めていた段階でもあった。

「動」の自然法則の究明は、橋本先生の生涯にわたり研鑽が積まれていた。

その一つが、身体運動の法則として産声をあげた平均集約運動法、つまり般若身経であろう。

般若身経は、極限安定率としての8つの動き一つ一つで、どうしたら全体的調和に導けるかを示したものでもある。

この般若身経の研鑽は、著書を辿る限りでも20年以上の年月がかかっている。

古今東西の今までの文献に、書き残されたものが無い事をやろうというのだから、根気と時間が要るし、自らの感覚を鋭敏にして、からだと向き合わなくてはならない。

からだが全体的調和に向かえば、「気持ちがいい」のだ。

「気持ちがいい」という、その感覚でバランス制御が可能という事。

橋本先生は、晩年に「気持ちのよさをききわければいいんだ、気持ちのよさで治るのだからな」と仰っていたというが、体験すれば頷ける事柄である。

こうして、「動かして診る」という独特な診断分析法をとる操体法は、治療学の枠を超え真の健康学として体系化されていく事となる。

尚、「動」の自然法則に基づき「気持ちよさ」を味わう操法は、表立って公開はしていなくとも近しい弟子の人達に、提案するようなかたちで見せてくれていたという。

それは、はじめに「楽か、ツライか」の運動感覚差を確認する手順もなければ、「瞬間急速脱力」もない、「気持ちよさ」だけに特化した操法のとおし方だったという。

残念ながら、橋本先生も生身の人間だった故、「動」の自然法則に基づき「気持ちよさ」を味わう診断、操法の体系化を成せぬまま永眠されてしまった。

しかし、橋本先生の遺志を継いだ三浦寛先生によって、一つ一つの動きが「動」の自然法則に基づき、どの様に身体全体の動きとなるのかが解明され、「気持ちよさをききわけ、味わう」診断分析法が遂に体系化された。

そして、操体、操体法は、そこから更に進化を重ねていく事となる。

今回、操体、操体法の初期の頃の概論を書きました。

一般的には初期の頃の操体法の方がポピュラーであり、一時期は不快症状に悩む一般の人達や手技療法家の人達にも、爆発的に広まりました。

操体法が爆発的に広まった当時、沢山の著者による操体法の書籍がでました。

大抵の書籍には、出版社の意向か著者の意向か判りませんが、症状疾患に対するやり方も載っていました。

これらは、書籍によって同じ症状疾患でも著者によってやり方はまちまちであり、本格的に操体を学ぶ前の「感覚」や「バランス」の重要性が理解できていなかった当時の私は、戸惑いを感じていたのが思い返されます。

症状疾患を治すという意識で操体と向き合っても、なかなか効果は上がらないと思います。

操体は治療学ではなく、治療学の枠を超えた健康学なのです。

橋本先生は晩年、NHKラジオに出演されていますが、その時の記録を読み返してみると、「バランス」とか「気持ちよさ」という言葉を凄く多く使っています。

身心のバランスが整って環境に適応できていれば、気持ちよく生活できるのです。

健康とは、その様な状態であり、気になる症状や疾患があっても、健康を取り戻し、維持、増進させていく過程に於いて、アンバランスな現象として生じている症状、疾患も自然と治まっていくのです。

操体の診断分析法の進化は、この過程を時間的にも内容的にも、より良くする為の進化でもあるのです。

今度の東京操体フォーラムに参加いただく方の中には、手技療法に携わっている方もいらっしゃると思いますが、この様な健康学を基にした捉え方も持っていて下さると、味わいがまた違ってくると思います。

「『もっとまるごと操体法』にむけて」 瀧澤一寛

操体は、今なお進化し続ける「からだ」主体の健康学です。

「からだ」主体とは、感覚という「からだからのメッセージ」を指針にして、いかに「からだの要求」に応えていくか、ということです。

創始者の橋本敬三医師から、直弟子である三浦寛理事長へと繋がる学問の流れがあり、生命の観点から「いのち」の可能性を見据え、よりよく生きていくために必要なことを、質を高めながら伝え続けています。

わたしたちは地球という大地環境の場において、日々生命活動を営んでいます。

これまで操体では、生命エネルギーの入出力のバランスをとることが健康維持増進へと繋がると捉えてきました。

生命エネルギーの入出力を自律可能な最小限の営みとして捉えると、息、食、動、想がそれにあたり、環境を含めた同時相関相補性の観点から、本人の意識による「自律」によって「からだの要求」に応えていく姿勢が必要でした。

その鍵となるのが原始感覚(快、不快)だったのです。

頭で考えて結論を導くのではなく、「からだ」に「感覚」をききわけ、それが「快」として感じられるのかどうか。

快適感覚を「からだ」と共有することが健康維持増進を可能にしていたのです。

しかし、地球という大地環境においては、重力とのバランスをはかることが最優先となる、といっても過言ではありません。

現在は、重力とのバランスという観点から、「からだ」の中心と重心を捉え、「重心の適性にかなう」ことが健康維持増進の要点という認識になってきています。

重心の適性にかなった立ち方や呼吸、うごき、そして、意識の使い方を「正当なからだの使い方」として学習していくこと。

それにより、息、食、動、想の営みは、本人の意識による「自律」から、「からだ」そのものの「自律」によって「からだの要求」にかなう営みへと変化してきているのです。

「感覚をからだにききわける」から、「からだがききわけている感覚にゆだねる」へ。

臨床空間と生活空間、操者と被験者といった枠組みを超えて、ひとり一人が「自力自療」にかなっていける「からだ」主体の健康学としての操体が実践可能となってきています。

そして、そのような健康学を体感していると、生かされながら生きている実感と共に「感謝」ということもまた健康維持増進に必要不可欠な要素であることも理解できてきます。

ここに、創始者の「救いの生命観」が息づいているのです。

今回は、操体法という実技を披露し、実際に体験していただくところまでを予定しています。

傍から見れば、数ある手技療法同様に、ある種のテクニックのように見えるかもしれませんが、そのポイントとなる一つ一つは、「からだ」主体の健康学に根づいたものです。

操体法の「法」は法則の「法」です。

どのような法則性によって成り立っているのか。

ウソか、ホントかやってみて、実際に体感して掴んでいくこと。

そのような場になることを愉しみにしています。